歴史文化ギャラリー > 地域の史跡等
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「天狗党の乱」は幕末の水戸藩に起こった水戸藩尊攘派「天狗党」と保守派「諸生党」の血で血を洗う内戦です。この内戦によって水戸藩は3000名という多くの有為の人材を失いました。
「天狗党の乱」の主役である天狗党は元治元年(1864)3月に藤田小四郎が中心となって筑波山で挙兵し、水戸藩内で幕府追討軍や諸生党の連合軍と戦い、その後大子から京都を目指して1000余人の集団で移動。途中で幕府の命を受けた各藩と戦い、北陸の敦賀にて降伏。その後350余名が斬首になりました。しかし、この「天狗党の乱」の大規模な戦闘が水戸から東へ10数キロ離れた那珂湊(ひたちなか市)の地で行われたことを知る人はあまりおりません。
那珂湊近辺には多くの「天狗党の乱」関係の碑、戦死者の墓が残っており、内戦の跡を辿ることができます。また、この地で1000余名が降伏し、水戸藩の中での戦闘は終結しています。この地で降伏しなかった1000余名が敦賀で投降した人たちになります。敦賀での投降組以外の那珂湊の投降組も幕府の手によって処刑されました。その死罪の規模は合わせると安政の大獄の数10倍に及びます。幕府の処断は苛烈を極めました。
一方の保守派諸生党側も王政復古の後、500余名が水戸を脱出し、戊辰戦争に幕府軍として参加。会津戦争を戦い最後は千葉の地で滅亡しました。
※詳細は「天狗党の乱那珂湊の戦い」PDF版をご参照ください。
※さらに詳しく知りたい方は以下の文献をご覧ください。
加藤木和夫(2023)水戸天狗党──志士たちへの旅:ふるさと那珂湊とその歴史、時代を訪ね歩く
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(ペーパーバック版あり)