歴史文化ギャラリー > 地域の史跡等
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徳川光圀は隠居後の元禄11年(1698)に、日和山(現在は湊公園)の上に迎賓館として湊御殿を建てました。ここでは御殿全体を「湊御殿」、建物を「夤賓閣(いひんかく)」と呼ぶことにします。
光圀によって新しく建てられた湊御殿は「建坪1000㎡、部屋は御座(ござ)の間、寝所、風呂場、近習目付部屋、小姓部屋、医師部屋、鷹匠部屋など28」におよぶ豪壮な建物と日本庭園を有しました。
湊御殿が建っていた年数は166年間。那珂川河口の出船入船や筑波山へと続く関東平野、時には富士山も望める絶景の地です。ここでは歴代藩主らが静養を主な目的にしばしば訪れ、酒宴や詩歌の会などを催しました。日和山東端には「異国(船)番所」が置かれ、幕末まで海防の拠点としての役割も担っていました。
湊御殿は元治(げんじ)元年(1864)の水戸藩の内部抗争に端を発した元治甲子の戦乱(いわゆる天狗党の乱)で焼失してしまいました。
現在、湊公園には、昭和十三年に建立されたのち、現在地に移転された「夤賓閣址」の碑があります(図の中央に見える)。
昭和43年1月に日和山(湊公園)は「夤賓閣跡」として那珂湊市指定文化財(史跡)となりました。また、公園内の見事な黒松の老巨樹は、光圀が須磨明石から取り寄せたと伝えられ、十二株が昭和46年9月、同市指定文化財(天然記念物)となり、双方とも現在はひたちなか市指定史跡になっています(図)。
※詳細は「絵図で見る湊御殿・夤賓閣」PDF版をご参照ください。